2011年1月16日 (日)

第285回 日本の城

上桜城:徳島県吉野川市川島町桑村Dscf0831

上桜城は、戦国時代の末、篠原紫雲長房が、
その経験を生かし、この天然の要害に築いた。
山頂の本丸は、二の丸、三の丸を廻らし、西の丸には北と南に空堀を持つ。

Dscf0836元亀3年(1572年) 長房は讒言によって主君
三好長治の率いる兵7千によって攻められ、
7月16日激戦の後、城兵全員が悲壮な戦死を
とげ落城した。
いわゆる上桜の戦で、城址の麓には両軍戦死者の慰霊碑がある。

城址案内板はすぐ見つかったんですが、迷ってしまいました。

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2011年1月15日 (土)

第284回 日本の城

松永城(犬墓城):徳島県阿波市市場町犬墓Dscf0818

戦国末期に松永久秀が築いたとされる。

将軍・足利義輝を殺害し、東大寺大仏殿を炎上
させるなど、悪名高い『松永久秀』。
阿波出身説もあるようです。

ちなみに、犬墓という地名の由来はこちら↓

Dscf0820

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2010年12月27日 (月)

第279回 日本の城

田尾城:徳島県三好市山城町黒川Dscf0741

田尾城は中世の山城で南城と北城がある。
南北朝時代の山城の特徴は、石垣の無い空掘りで城の配置にも特色がある。
当時は北城が正面、戦国時代南城が改修され正面に変わる。

①南北朝時代
平地より侵攻して来た、北朝方の細川頼春に対し、池田城の小笠原義盛は南朝方に味方して建武4年/延元2年(1337年)挙兵し戦ったが戦い利有らず和を結んだ。
長男・頼清は節を曲げず、讃岐に侵攻して来た、南朝方の山岳武士集団の脇屋義助と呼応して田尾城を築き八石城と連携した阿波山岳武士の拠点である。

②戦国時代
土佐の長宗我部元親は四国制覇の野望を抱き約3000の兵を従え天正5年(1577年)春 侵攻して来た。
白地城主・大西覚用は砦の田尾城を修築し弟・頼信13歳を城主とし、守将の寺野源佐衛門武次に兵300を与え猛反撃を繰り返したので、力攻めでは落とせないと見た元親は夜陰に乗じ山に火を放った。
火攻にあい落城したので、白米伝説がある。

       【本丸】Dscf0757       【堀切り堀】Dscf0750    【元親の指揮所】Dscf0742





城址は山の中にあり、道は細く、何度も迷いました。

山城を攻める時には、『PAJERO MINI』や『Jimny』が欲しい・・・

Dscf0752

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2010年2月 6日 (土)

第228回 日本の城

土御門上皇行宮:徳島県阿波市土成町吉田Dscf8879

土御門上皇は、第83代天皇として建久9年(1198年)4歳で即位され、在位12年後の承元
4年(1210年)16歳のとき弟・順徳天皇に譲位された。

承久の乱(1221年)後、北条氏によって後鳥羽・順徳両院は遠島に付されたが、土御門上皇は謀議に参加しなかったとして不問にされた。
このとき、上皇は二院の遠島を悲しまれ、京都に独り留まることを心苦しく思われたため、北条氏は上皇を土佐の畑(幡多)へお遷ししたが、その後の貞応2年(1223年)に阿波へ移され、土佐院または阿波院といわれた。

嘉禄3年(1227年)春夏の頃、ここに新御所を造営し、板野町字下ノ庄栖養の里の松の木殿から遷られてから、御所屋敷と称し、寛喜
3年(1231年)の上皇崩御の日まで住まわれた行宮址と呼ばれている。

この周辺には、姫塚・山皇子・御炊所・御所の井等の地名が今に
残されている。

Dscf8883これは『日本の城』じゃないか・・・

まぁ、大目にみてください。
次回もこんな記事です。

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2010年2月 2日 (火)

第227回 日本の城

伊沢城:徳島県阿波市阿波町岡地Dscf8890

初代城主・伊沢四郎太夫家景は、文治5年(1189年)に奥州の藤原泰衡討伐で功績を挙げて代々この地を領した。

天正10年(1582年) 15代城主・伊沢志摩守綱俊の時に長宗我部
元親の侵攻により落城。

天正13年(1585年) 阿波に蜂須賀氏が入国すると志摩守綱俊は
これに従い、与頭庄屋に任じられ代々その職を継いだ。

Dscf8891蛭田池西側の台地が伊沢城址であるが、今では住宅団地となっている。

伊沢氏の家系は現在も続いているそうです。

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2010年2月 1日 (月)

第226回 日本の城

久千田城(朽田城):徳島県阿波市阿波町大坪Dscf8885

久千田城は鎌倉時代、三浦為清が久千田庄の地頭として来任し築城した。

その後、安房伊予守の居城であったが、南北朝時代に小野寺八郎が正平7年(1352年)南朝方に味方して挙兵した軍功によって所領を賜わり居城していた。

応永元年(1394年)に再び小野寺安芸守が来任し数代居城、その後天正10年(1582年)小野寺備中守のとき長宗我部元親の侵入により落城し、城主は美馬郡一宇へ移ったといわれている。

Dscf8889田圃の中にある盛り土が主郭だそうです。

石碑・祠・案内板がありました。

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2010年1月28日 (木)

第225回 日本の城

西条東城:徳島県阿波市吉野町西条Dscf8863

貞和2年/正平元年(1346年)に秋月城の支城として築かれたとされる。

天文年間は、岡本美作守清宗が居城し、勝瑞城主・細川持隆に仕えていた。

その後、天正10年(1582年)長宗我部元親の侵攻により落城した。

天正14年(1586年) 蜂須賀家政が阿波に入国。
この城を阿波九城の一つとして修築し、家臣・森監物に守らせたが、元和元年(1615年)の一国一城令により寛永15年(1638年)に廃城となった。


天文年間の城主・岡本美作守清宗の娘は絶世の美女と言われ、
細川持隆の側室となり小少将と呼ばれました。
小少将は男を手玉にとって、細川氏・三好氏の混乱を招き、長宗我部氏の阿波侵攻を許してしまいます。
勝瑞城落城後、小少将の消息ははっきりしませんが、長宗我部元親の側室になったという説もあります。

こんな歴史ロマンが感じられるはずの城址も廃車が置かれたままに
なっているとは・・・残念です。

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2010年1月27日 (水)

第224回 日本の城

瀬部城:徳島県板野郡上板町瀬部Dscf8860

城主の瀬部氏は小笠原氏の一族とされる。

天正10年(1582年) 時の城主・瀬部嘉右衛門中富川の合戦に三好方として参戦し、討ち死に
している。

Dscf8862遺構は確認できませんでした。

のどかな田園風景です。

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2010年1月26日 (火)

第223回 日本の城

Dscf8858 七条城:徳島県板野郡上板町七条

城主は七条兼仲。

天正10年(1582年) 中富川の合戦で十河存保に加担し、戦死している。

城の遺構は確認できませんでした。


前々から気になっていた七条城主・七条兼仲。

というのも、『信長の野望』に登場する兼仲の能力設定が特徴的
だったからです。
【智謀】や【政治】は極めて低いんですが、【武勇】が異様に高い。
ゲームをしていた当時は「こんなに【武勇】が高い武将が四国にも
いたのか?」なんて思っていました。

ここで、兼仲の【武勇】を象徴する伝承の一つを紹介。

~ 兼仲は大山観世音菩薩に「向一倍の力を授け給え」と21日間
深夜参詣をして、比類なき怪力を授かります。
兼仲は御礼として、自ら九輪の石塔と鏡餅を山麓より背負い上げて奉納します。                     大山寺HPより ~

これが起源となり、大山寺では『力餅』が毎年盛大に開催されています。

【大山寺】Dscf8873














400年以上の歴史を持つ、『大山寺の力餅』。
豪傑・七条兼仲を後世に伝えるためにも、続けて欲しいものです。

Dscf8874

Dscf8876













ちなみに男性が抱える餅は169kgだそうです・・・

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2010年1月25日 (月)

第222回 日本の城

板西城:徳島県板野郡板野町古城 Dscf8854_2

平安時代末期 藤原師光の六男・近藤六親家が築城したという。
親家は、文治元年(1185年)屋島の合戦に向かう源義経の道案内をして、平家滅亡の一助となった人でもある。

その後、赤沢氏が居城としたが、天正10年(1582年)中富川の合戦で、土佐の長宗我部元親の兵火にかかり、勝瑞城とともに落城。

Dscf8852蜂須賀氏の入国後も、再建されることもなく、
その正確な位置、規模とも不詳であり、『古城』
『城ノ内』『城ノ西』という地名が名残をとどめているのみである。

しばらく日本の城の舞台は徳島県。
徳島県って、史跡を大切にする土地柄やなぁ。

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