2010年2月 9日 (火)

第230回 日本の城

縦淵城:愛媛県松山市東石井5丁目Dscf8910

この城は、小野川(縦渕川)の南、高さ8m、東西47m、南北86mの丘の上にあったが、明治21年(1888年) 土佐街道(今の国道33号線)がつくられたとき、取り崩された。
このとき切り石垣が出てきたという。

伊予の豪族河野氏は、源氏と結んで勢力を伸ばしたが、承久の変(1221年)により没落した。
このとき、鎌倉の味方をした庶子の通久は、功により久米郡石井郷をもらって家督を継ぎ、縦淵城を築いた。
その後、同母弟の通継を経て、河野通有が跡を継いだ。

通有は、弘安の役(1281年)において、「河野の後ろ築地」と呼ばれる勇気や蒙古の軍船に乗り込む等の勇猛振りで、全国に名を轟かせて勢力を回復した。
その後、通盛の代になって、湯築城を築き、伊予平野の中心地に
出て勢力を伸ばし、国司に任じられるようになった。

Dscf8912【河野通有石像】
松山市 井出神社にあります。
最初は縦淵城址の神社に立てる予定が、境内が狭いため中止になったそうです。

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2010年2月 8日 (月)

第229回 日本の城

雲井御所:香川県坂出市林田町Dscf8896

保元の乱に敗れ讃岐に配流となられた崇徳上皇が、仮の御所として過ごされた場所と伝えられ、天保6年(1835年)高松藩主・松平頼恕公により雲井御所之碑が建立されている。

保元の乱は平安時代の末、摂関家の藤原頼長と忠通の争いと皇室である崇徳上皇と後白河天皇の争いが結びついて激しさを増し、
保元元年(1156年)鳥羽法皇の死を契機として一挙に激化した争乱である。
結果は崇徳上皇の大敗に終り、上皇は讃岐に配流となった。
当時38歳の崇徳上皇は、国府の目代である綾高遠の館を仮の御所とされたと伝えられている。
Dscf8898『綾北問尋抄』『白峯寺縁起』などでは、仮の
御所で3年を過ごされながら、都を懐かしく思い
その御所の柱に御詠歌を記したとされ、その
一首に

 ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて

と詠まれた歌から雲井御所と名付けられたと伝わっている。

雲井御所で約3年過ごされた上皇は、府中鼓ヶ丘木ノ丸殿に遷御され、長寛2年(1164年)8月 46歳の若さで崩御なされた。

「ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎2010」で崇徳上皇が取り上げられていました。

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2010年2月 6日 (土)

第228回 日本の城

土御門上皇行宮:徳島県阿波市土成町吉田Dscf8879

土御門上皇は、第83代天皇として建久9年(1198年)4歳で即位され、在位12年後の承元
4年(1210年)16歳のとき弟・順徳天皇に譲位された。

承久の乱(1221年)後、北条氏によって後鳥羽・順徳両院は遠島に付されたが、土御門上皇は謀議に参加しなかったとして不問にされた。
このとき、上皇は二院の遠島を悲しまれ、京都に独り留まることを心苦しく思われたため、北条氏は上皇を土佐の畑(幡多)へお遷ししたが、その後の貞応2年(1223年)に阿波へ移され、土佐院または阿波院といわれた。

嘉禄3年(1227年)春夏の頃、ここに新御所を造営し、板野町字下ノ庄栖養の里の松の木殿から遷られてから、御所屋敷と称し、寛喜
3年(1231年)の上皇崩御の日まで住まわれた行宮址と呼ばれている。

この周辺には、姫塚・山皇子・御炊所・御所の井等の地名が今に
残されている。

Dscf8883これは『日本の城』じゃないか・・・

まぁ、大目にみてください。
次回もこんな記事です。

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2010 S/S

今日からスタートしたNEIGHBORHOODの2010 1STコレクション『THE MAGNIFICENT SEVEN』 。

派手なマウンテンパーカーが欲しいと思っていたので早速ゲット↓Dscf8930














今季はFIXXが楽しみです。

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2010年2月 2日 (火)

第227回 日本の城

伊沢城:徳島県阿波市阿波町岡地Dscf8890

初代城主・伊沢四郎太夫家景は、文治5年(1189年)に奥州の藤原泰衡討伐で功績を挙げて代々この地を領した。

天正10年(1582年) 15代城主・伊沢志摩守綱俊の時に長宗我部
元親の侵攻により落城。

天正13年(1585年) 阿波に蜂須賀氏が入国すると志摩守綱俊は
これに従い、与頭庄屋に任じられ代々その職を継いだ。

Dscf8891蛭田池西側の台地が伊沢城址であるが、今では住宅団地となっている。

伊沢氏の家系は現在も続いているそうです。

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2010年2月 1日 (月)

第226回 日本の城

久千田城(朽田城):徳島県阿波市阿波町大坪Dscf8885

久千田城は鎌倉時代、三浦為清が久千田庄の地頭として来任し築城した。

その後、安房伊予守の居城であったが、南北朝時代に小野寺八郎が正平7年(1352年)南朝方に味方して挙兵した軍功によって所領を賜わり居城していた。

応永元年(1394年)に再び小野寺安芸守が来任し数代居城、その後天正10年(1582年)小野寺備中守のとき長宗我部元親の侵入により落城し、城主は美馬郡一宇へ移ったといわれている。

Dscf8889田圃の中にある盛り土が主郭だそうです。

石碑・祠・案内板がありました。

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2010年1月30日 (土)

書道ガールズ

モデルは愛媛県立三島高校 書道部。

舞台はもちろん愛媛県四国中央市。

こんな映画の撮影が始まったと市報で知りました。

Dscf8900













とめはねっ!』もドラマ化されたみたいですし、今、書道が熱い!

しかし、四国中央市での映画ロケとは・・・こんな事もあるんやな。

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2010年1月28日 (木)

第225回 日本の城

西条東城:徳島県阿波市吉野町西条Dscf8863

貞和2年/正平元年(1346年)に秋月城の支城として築かれたとされる。

天文年間は、岡本美作守清宗が居城し、勝瑞城主・細川持隆に仕えていた。

その後、天正10年(1582年)長宗我部元親の侵攻により落城した。

天正14年(1586年) 蜂須賀家政が阿波に入国。
この城を阿波九城の一つとして修築し、家臣・森監物に守らせたが、元和元年(1615年)の一国一城令により寛永15年(1638年)に廃城となった。


天文年間の城主・岡本美作守清宗の娘は絶世の美女と言われ、
細川持隆の側室となり小少将と呼ばれました。
小少将は男を手玉にとって、細川氏・三好氏の混乱を招き、長宗我部氏の阿波侵攻を許してしまいます。
勝瑞城落城後、小少将の消息ははっきりしませんが、長宗我部元親の側室になったという説もあります。

こんな歴史ロマンが感じられるはずの城址も廃車が置かれたままに
なっているとは・・・残念です。

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2010年1月27日 (水)

第224回 日本の城

瀬部城:徳島県板野郡上板町瀬部Dscf8860

城主の瀬部氏は小笠原氏の一族とされる。

天正10年(1582年) 時の城主・瀬部嘉右衛門中富川の合戦に三好方として参戦し、討ち死に
している。

Dscf8862遺構は確認できませんでした。

のどかな田園風景です。

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2010年1月26日 (火)

第223回 日本の城

Dscf8858 七条城:徳島県板野郡上板町七条

城主は七条兼仲。

天正10年(1582年) 中富川の合戦で十河存保に加担し、戦死している。

城の遺構は確認できませんでした。


前々から気になっていた七条城主・七条兼仲。

というのも、『信長の野望』に登場する兼仲の能力設定が特徴的
だったからです。
【智謀】や【政治】は極めて低いんですが、【武勇】が異様に高い。
ゲームをしていた当時は「こんなに【武勇】が高い武将が四国にも
いたのか?」なんて思っていました。

ここで、兼仲の【武勇】を象徴する伝承の一つを紹介。

~ 兼仲は大山観世音菩薩に「向一倍の力を授け給え」と21日間
深夜参詣をして、比類なき怪力を授かります。
兼仲は御礼として、自ら九輪の石塔と鏡餅を山麓より背負い上げて奉納します。                     大山寺HPより ~

これが起源となり、大山寺では『力餅』が毎年盛大に開催されています。

【大山寺】Dscf8873














400年以上の歴史を持つ、『大山寺の力餅』。
豪傑・七条兼仲を後世に伝えるためにも、続けて欲しいものです。

Dscf8874

Dscf8876













ちなみに男性が抱える餅は169kgだそうです・・・

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